六角橋・斎藤分
戦後の思い出話


  斎藤分町在住 飛彈 博 さん
 昭和二十年八月十五日の前後、当時の我家は(現在の六角橋三丁目の)神奈川大学の近所に住んで居りました。斎藤分町の現住所には昭和二十三年三月に転居して参りました。我国の敗戦前後に就いて少々述べさせて頂きます。
 私は国民学校二年生で栗田谷国民学校へ在籍中ですが、殆ど休校でした。
 毎晩深夜には「米国飛行機B29」の来襲があり、その都度「防空壕」へ避難するので大変な毎日でした。
 或晩防空壕に避難中に大きく壕全体が振動し、大きな音が聞こえて、何事かと大人達が色々と想像して居りましたが、翌日にはB29襲来機が「日本軍高射砲」に依り撃墜されて、そのエンジン部分が墜落して既に焼失していた捜真女学校側の道路にジュラルミン色の機体の一部が落ちて居りました。
 八月十五日以後の私たち日本人の生活で、一番大きな変化は神奈川大学が米軍によって接収された事です。当時の正門は現在の東門に在り、現在の正

門は西側の脇門でした。私の記憶では、その奥に二棟のカマボコ型のトタン兵舎を建て、正門には毎日二十四時間小銃を持ったMP兵士二名が歩哨となり、警戒・監視役を勤めて居りました。親達から絶対に近寄る事を禁止されていた子供達は、それでも段々と兵士に対して親近感を深めて、学校から帰校後毎日の様に米軍歩哨の許に日参するのでした。目的はチョコレート、ガム等を兵士より貰う為です。ガムの甘味が消えると全部腹中に飲み込むの
でそれを見た兵士達は大笑いして居りました。
 一方、交通の利便さは東横線「白楽駅」を利用しましたが、商店街側改札を出ると正面の、現在「ドトールコーヒー店」の前には、白衣の傷痍軍人が二・三人でアコーディオンを弾き乍ら、軍歌「戦友」を歌い、募金を乞うて居る姿が毎日見られ、戦争の傷跡が私共子供にも痛々しく感じられるのでした。
 東横線東白楽駅と反町駅の中間の
「広台太田駅」及び反町駅と横浜駅とのトンネルを出た所の「神奈川駅」は、爆弾により全焼し鉄骨だけが長い間放置されて居りました。 JRの前身国鉄「東神奈川駅」には横浜線の終着駅であり、車両には「米軍兵士専用車」が連結され日本人オフリミットとして、その車両の米国兵士の乗車が静かな有様を、満員車両の乗客日本人は羨望の眼で見て居りました。私は八王子の叔母の家へ食料の買い出しに母親と一緒に毎度利用しましたが、この車

両の件は今だに記憶して居ります。又、当時「遠距離特急列車」には「郵便車」が連結されて居り横浜駅停車中に郵便物、貨物などを降ろして、新規荷物の積み増しが短時間にて行われ、ホームに設置されたエレベーターに積込まれて地下手運ぶ作業を、「入場券」を買いわざわざ見学しに行きました。横浜駅東口正面には蒸気機関車整備工場が在り、常時七・八両の機関車が整備されて居りました。
 昭和二十五年頃には東口の中央通路
には「朝鮮戦争派兵」の兵士達が列車の到着待ちで、兵士達は小銃片手に鋭い目を私共に投げかけ、引率の先生からは目を合わせぬ様にと注意をされる程でした。西口からは、又市電に乗りかえるのでした。兎に角市電は便利な乗り物で、私共は何かと利用して、当時の「横浜繁華街」は野毛、伊勢佐木町で有り、横浜駅西口には相模鉄道の砂利置場に過ぎず、後年「横浜高島屋」が開設される迄は閑古鳥が啼いて居りました。
 六角橋商店街も未だ焼跡の復興が途中にて、私の見た当時の有様で深く記憶に残って居るそのものの一つに、八百屋さんの店主が「雨戸」を一枚店先に敷いて、その上には笊(ざる)に入れた柿、林檎などの「皮」だけが売り物となり「実入りの本体」は店の奥に仕舞い込み、常連客の時には奥から表へ持出して商売をするのです。全て盗難を回避するための造作なのです。店の先に置くと皆盗難に遭うので、その回避策なのです。私が深く記憶してい

るのは「柿の皮」に「干柿」と同様に皮だけでも甘く白い粉が付着してあった事です。それでも歳末の商店街(仲見世商店街)は大変な混雑振りで、小机・中山方面からの買い物客は相当の有様でした。「魚屋、肉屋」はそれぞれ数店舗有り、大賑わいでした。農家は一年分の衣類等購入する為に、中山・小机方面からのお客なのでした。
 近所を眺めると「六角橋・松本町道路」の両側は八割方焼け跡となり淋しい有様でした。斜め下の家は「引き馬
荷馬車」を家業として居、毎朝馬の朝食の準備で親方はいそがしい様でした。その他六角橋・斎藤分北部には「田舎芝居」の小屋が建ち四方を葦で囲ってありました。
  同じく「親松乃湯」の近くには「牧場」も有り牛の姿が見られるのです。驚いたのは、その後(現在の西神奈川三丁目)白楽駅際にはダンスホール及び洋画上映の白鳥座映画館が建ち、それぞれにネオンサインの輝きで点灯されたことです。赤白青色の極彩色に充
ちた光彩の出現と、米軍兵士と腕を組んだ日本女性の姿は子供の私にも大変な驚き事でした。それ迄は夜間の「各家照灯」より漏れる光が米国飛行機の爆弾投下の目標物となるので、夜間の灯火は厳重に「取調対象物」となり、町内会長より厳重な監視対象となっていたので「裸電球一灯」にも厳しい注意がとられていたのです。
 又、主食の配給は「玄米」の配給があり、子供の私などは空き瓶にその玄米を入れて、掃除用ハタキの柄の部分

を持って玄米を搗くのです。八割がた白米に近く迄搗くのが帰宅後の私の仕事でした。その他にも「甘藷(さつまいも)」の場合は母親が「甘藷」を薄く輪切り(ポテトチップの如く)に切り、それを私は屋根の上に筵(むしろ)を敷いて乾燥する迄干すのです。完全乾燥したものは次に石臼で粉に引き、最後に若干の小麦粉を加えて「饅頭状」にして蒸かし、それを食卓にのせるのでした。
 二谷小学校の再建が出来て私共は転
校することになりました。平川町の焼跡の中に輝いておりました。通りには同時に「文房具屋ハトヤ、高崎パン屋」も同じく並んで新築開店され、立派な店舗が建っておりました。然し真冬に暖房施設が無く、授業の合間には廊下にて「押しくら饅頭」を為して寒を凌ぐのでした。男・女の区別は無く、皆一生懸命に動いて暖を取るのでした。 体操の時間には、焼跡の校庭に横にクラス全体が一メートル間隔に並び、校庭に散乱しているガラス片、焼
け釘等を拾い集め石油缶に収めるのでした。運動が出来るようになる迄続けたのです。横浜市も校舎再建迄で、校庭の事情迄不可能だったのです。
  その一番は音楽授業が始まった事でした。オルガンを初めて見ると共に「ドレミ…」の音符を初めて知り、音楽専門の先生にも初めて知り合い、その授業に驚きましたが、音楽教本には「スコットランド、アイルランド民謡、米国フォスター作曲」したものが大半を占めて居りました。

 主食の話に戻りますが当時の配給物資は「甘藷」が多く支給されて、場所は東横線東白楽駅のガード下の野天であり、当日は「向こう三軒両隣」の配給品を一緒に受け取るので大変でした。当日は近所のN商店よりリヤカーを借りて持帰るのでした。その都度「F医院」の急坂を登るので私は母親の引くリヤカーの後部を押すことを命じられて、あの急坂を登るのでした。その後配給は平川町の現在のクロネコ事務所に替りましたが急坂登りの難行
は続くのでした。

斎藤分町転居後について

  転居後も「栗田谷小学校」への通学は変わらずに、先述の如く通行路も同じでした。朝方登校する経路も同じで、途中の焼跡にて紙芝居のオジさんが「早朝実演」を行って居たり、その「黄金バット」の内容に心を奪われて度々遅刻する程でした。
  当時の栗田谷中学には軍隊帰りの先
生も多く、青竹を持って「朝礼式」に臨んでおり、礼儀・作法を破る生徒の尻を遠慮なくて叩いて態度を改めさせて居りました。
 中学校生活も終わりの或る日、先生がクラス全員に卒業後の進路を尋ねた事がありました。生徒は各自それぞれ「就職・工業・商業学校等」への希望を述べて居りましたが、その中で女生徒の一人の希望は「ピアノ科」の有る高校への希望と申したので、先生及び他の生徒は暫く理解出来ずに居りまし

たが、先生が「ピアノ」の勉強が希望なのかと尋ね、生徒も同意してやっと「高等学校音楽科」への希望と判りました。終戦の様々の困難な生活の中で、知らず知らずのうちに「ピアノの勉強を望む生徒の居ることは日本社会にもなにがしかの余裕・希望が生じていたのか」と、最近になって合点がいって居ります。又栗田谷中学校の「校歌」が出来たのは私共の卒業式直前でした。作詞・作曲共に同級生の父兄が為された校歌です。私共の卒業式
が迫って居り、毎日の様に全員講堂にて練習を繰り返したものです。

斎藤分南部町内会の楽しい催し

 昭和二十三年三月に斎藤分町に転居し、私は小学校四年生となりました。その夏に町内の少年相撲大会が催されることになりました。善龍寺参詣道の真ん中に土俵を作り、其処が決戦場です。上位入賞者にはそれぞれ小学生に相応しい商品が与えられ、参加者全員  
にも鉛筆一本が用意されました。生活全般に「物不足状態」の中では大変有難い品物だったのです。此の行事は数年で終わりましたが今でも記憶に残っております。
 御祭行事の一つに子供神輿の催しが有りました。如何なる「神輿」だったのか今では判然としませんが、御祭日の午後に事務所を出発しました。懐中には既に町内より配られた菓子類が一杯でした。道は「旧山本酒店」手前の坂を右に折れて六角橋・松本町の大通

りに出ます。斜め前のT家門前に到着すると正面門は開かれて居り神輿はその儘庭中に入り一層の揉み合いとなります。広い庭中を彼方此方と揉み合い、最後に「休憩所」では又菓子類を各人与えられ、それも懐中に納めるのでした。再び大通りに出た神輿は下り坂を進みます。両側の家々は中丸町に変わりますが、神輿の通過を待っていた中丸町の小母さん達がバケツ・鍋釜に水を一杯入れて、それを子供神輿に精一杯に浴びせかけるのです。小母さ
ん達も面白がってあびせるのでしょうが、子供たちの我々も一層の元気を挙げて揉み合うのでした。再び町内会館に戻り冷静に自分の懐中を広げると、哀れにも納めた菓子類は水に濡崩れて居り破棄を余儀なくされるのでした。此れも記憶に残る行事の一つでした。

   斎藤分町在住 飛彈 博 さん